昭和44年1月24日 朝の御理解

第45節  世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほ      どかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさ      げることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、      出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろ      しい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱った      り手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげ      を取りはずすぞ。


 信心をして段々おかげを受けて、まあ言うなら身代も出けて、身に徳も身についてくる。「すごころ?」そういうおかげを受けさせて頂いて、せっかく頂いたおかげを慢心の為におかげを取り外すような事があってはならんという、これは御理解だと思うですね。だからおかげを受けて、ね、受けたおかげの、でまた、おかげを取り外すような事があってはならんという御理解なんですね。

 世に三宝様という事のところに、かっこがして、「穀物のい」と書いてありますね。三宝様という事は、穀物の事を言うのですね、ここでは。だから、穀物は実れば実るほどこう、例えば、稲穂なら稲穂がこうたれて行くように、本当言うたら、徳が身につくほど、本当の徳が身について来ればね、もう自ずとこう下がって来るのでしょうけれども、それが本当なものでない証拠に、えー、少し身代が出けたり、まあ言うなら人から先生と言われるようになったりすると、ついつい頭を下げる事を忘れる。

 そういう例えば、実意をかいだ心とか態度とかという事を、神様がお嫌いになるというか、そういう心ではおかげは受けられんから、神様がお気付けを下さる、ね。そこんところが、そこんところをここでは、天で頭を打つ事はあるまいと思う、思おうがとこう言うておられるんですね。天で頭を打つ、高いから打つ事はあるまいと思うけれども、ね、天で頭を打つのが一番恐ろしいと。

 これは、おかげを、おかげと分からんようになったり、おかげはおかげと感じておった事が薄らいで来たりする事が恐いですね。おかげを頂いたとこう言っておる、確かに霊験を頂く。ところが段々時間が立つと神様のおかげではなかったように思う。例えば、ふが良うて、ああ良うなったと。ふにその、感じがちである。おかげをおかげと感じきらんところに天で頭を打つようなこと、言うなら神様の大きなお気付けを頂く事になったりする。

 慢心が出るとおかげを取り外す。慢心が出るとおかげを取り外すぞと。ね、ですから今日、ここんところを、まあここの45節は、色々、色々な角度から、まあ御理解頂いて参りましたが、ね、今日は頭を下げる事を忘れると。神信心して身に徳がつくほど、屈んで通れと。ね、信心が少し分かって来たと、少し信心が有り難いものがわかっ、出けて来たと自分で感じたら、ね、もうこれは本当なものであったら自然に下がるんだけれども、まだ本当なものでない証拠に、なかなか下がらん。

 そこで、出る釘は打たれる。もう出来るだけ、やはり地を低うして、自分でそう心掛けとかないといけないと言うのである。ある時、ある宿へ3人の旅人が泊まり合わせた。一人は「いぞ」の人、町の人。一人は猟師町の人。一人は山国の人であったと。たまたま自分の国の自慢話が始まった。ほれでその、ある一人がですね、自分の国ではね、お天道様がその、海の彼方から出ると。いわゆる、水平線からこうお天道様が上がって来られると言うのである。

 ところが山口の人が、意識ばんで言った。そんな事があるはずがないじゃないかと。お天道様はもう昔から、ちゃんと山と山の間から出るごとなっとるんだと言う訳なんです。そしたらその、いぞの町の人が、本当に田舎の人達は何も分からんなあと。お天道様は家と家との間から出るもんじゃと言うたという話である。それは、そうですよね。町の人は、それこそビルの谷間からお天道様上がりなさるでしょう。ね、山国の人は・・・

 山国の人は、やはり山と山との合間からお天道様は上りなさる。しかしどれでも、なら嘘ではないのである。私共が本当な事を極めて行こうとするのが信心。いわゆる真実を追究のが信心。本当な事を分かろうとする。ね、信心の共励会、特に若い人達が集まりますと、必ずその、討論になる。それは丁度、そのお天道様は山の合間から出るんじゃ、いや、その海の彼方から出るんだと言うような事で討論をする訳。

 だから、それはどれでも本当なんだ。だからどれでも、やはりそれはそうだろうと、こう認めれる私はその、寛大さと言うかね、そういう心が必要である。また本当に分からなければ、それは本当と。ね、子供が言うこと、大人が言うこと。子供は子供なりに本当の事を言うておるのであるから、ね。問題は自分の思うておる事、自分がかく信じておる事。ね、それだけが本当なものじゃないという事を知っとかにゃいけん、ね。

 ほんな事っちゃない。信心とはこうだと。それは、なるほどその人が言うておる事も事実だけれども、結局自分がこうと知っておると信じておる事を、本当な事として話もすりゃ、思うてもおるのですから、ね。だから、私はかく信ずる、私はかく思うというものであれば良いのですけれども、アンタのは間違うとる、いうような事を言う。これなんかはもう、だいぶん頭を下げる事を忘れかかって来とる証拠なんです。

 私はお話を頂きよって、どこでどの信者さん方が色々なお話をするのに、それはそれなりに本当だと思うです。けれども、より本当な事がある。私がかくと信じておる、またその信じておる事によっておかげを受けておってもです、その事よりも、もっと本当な事があるならば、私共は素直に教えてもらい、素直にそこんところを、より本当な事へ思い替えをして行くと言うか、それを自分のものにしていくという事が、私は大事だとこう思う。

 けれども、頑固頭というかね、自分がこうと思うた事は、もう絶対間違いがない。これが本当だと思い込んでしまって、それを一生、それがほんなこつと思い込んで、信心を進めて行かない。もういよいよ頑固になって、いよいよ頭を下げる事を忘れてしまう。自分が思うておること、ね、現在の私が思うておる事は、現在では本当であるけれども、しかしより本当な事を分からせてもらおうとする態度が、私はいつも地を低うしておれれると思う。

 私は今日、この45節を頂いて、頭を下げる事を忘れるというところ。ね、だから頭さえ下げておれば地を低うさえしておれば、天で頭を打つような事はない。ここんところに焦点を今日はおいた。今、中島の上滝さんが毎日、まだ体が本当でないのに、毎日日参をして参ります。今度の長い間の病気で、もうギリギリ分からせられたこと。今まで自分の思うておった事がです、もう微塵に打ち砕かれたこと。もう本当にもう、それはなかなか頭が良くて実行者なんです。

 ですから信心は、これだ、これでおかげが受けられると信じておる。ですから、毎日、お昼参りやらする人たちが可笑しゅうしてたまらん、ね。上滝さんそんな事じゃなかばい。信心ちゃこう、それこそ参っても「拝ん?」、参っても参っても、拝んでも拝んでも、拝み足らん、お参りがし足らんというように、段々なって来なきゃほんな事っちゃないぞと。もうどのくらい私も口を極めて言うたやら分からん信心友達の人も、上滝さん、それじゃあと言うて。ところが、絶対譲らない。

 私はもう、アンタ方の毎日日参しよるとが、どうしても意味が分からん。特に善導寺の原さんなんかは、もうさかんにそれを言われなさった。はあ、もうちょっと神様はアンタだん忘れもせんが、ちゃんと親先生が仰った事を毎日の生活の中で生き生きと現して行きよる。金光様の信心なそうなんだ。毎日日参りお参りをする、そげな事はもう、という風に、もう言うておった。そして話を聞きよると、なるほどそれがほんな事のごと言うたりしておったし、また、上滝さんそれを思うておった。

 その中に次々とお気づけを頂いて、ね、台車で事故が、もうあの、それこそ次々と事故を、天で頭を打ちよった、軽く打ちよった。ね、けれどもこれはやはり上滝さんにひとつの期待があるからである。ね、そして今度は死ぬか生きるか、医者も起き上げきらんという、いつ「退院してよいやら?」、して良いやら分からんほどに目処のつかんような病気であった。それはもう、本当に不思議な不思議な病気であった。

 ね、ここで自分のこの首が、自分の思うごつならんのですから。頭を上げたいと思うても頭を上げたいと思うても頭が上げられん。頭を下げようと思うても下げられん。ほれで手でこうやって、「上にあげるだけ?」首が上に上がらない。横に向くとは、首で顔で手でこうやって「ひねんと?」横むけられんちいうような。しかもそれが、すぐ何かの調子に心臓があおいで、それこそもう終えるかかというようにひどかった。

 毎日、毎日、本当にもう難しかろうと言うような毎日を繰り返させて頂いておる内に、ね、色々分からされた、ね。今毎日、日参をさせて頂いて、今日は毎年必ず正月の24日は、上滝さんのところの、まだあの、主人である勇さんがおります頃から、今日は宅祭りです。ですから、今日はそのお祭がございます。ね、本当に今まで分からなかったこと。
それは今度の病気を通して分からせられた事を、もう第一にその事をお礼のお祭の焦点にしたいと言うて、昨日言うております。

 ね、もう死ぬか生きるかといったような病気をさせて頂いたけれども、ね、今までの事が考え違いであった、思い違いであった。例えばそういう人が今、合楽にいくらでもおるんですよ。もうここまで信心を高め、ここまで進め、ここまで分かって本当に惜しいなと思うような人がですね、あるんです。ね、かすかながらです、まあ言うならお気付けを頂いた事も私よう感じるんです。

 けれども、本人は気がつかない。それこそ、天で頭を打つより他にはしようがないような感じであるけれども、私は今、それをさかんに言う。その人達が集まったりしますと、その事をしきりに私が言うんです。ね、せっかくここまで分からせて頂いた、せっかくもう合楽ではです、まあ言うならば先生級の例えば信心をお互いが進めて来たと、合楽でですよ。ね、ですからもう何かと言うと、その人達が中心にならんなんというように、そのあるんですけれどもです。

 もうここまで分かってくるとです、もうやはり頭を下げる事を忘れる。それが本当の事のように思う。もうそこまで分かって来るんですから、やはりおかげは受けます。ね、けれどもです、決して信心というものは、そんなもんじゃないて、ね。いわゆる、人に頭を下げる事を忘れるじゃなくて、神様に頭を下げる事すらを忘れる。ね、拝んでも拝んでも拝み足らん。お参りしてもお参りしてもお参りし足らん。

 もうそういうようなものが身について来なければならんはずの人達が、もうその辺で腰掛けておるような感じですから、私が立ち上がれ、立ち上がれという意味の事を言う。見てごらん、その証拠に家内がついて来るまいが。見てごらん、その証拠には子供達がついて来るまいが。ね、アンタ達が今おかげ頂いておるそれは、ね、この世では通用するおかげであっても、あの世では通用するおかげじゃないから、さあ本当に分からにゃいけんぞというけれど、分からん。

 自分の「    」思うとる。それが期待があればあるほどです、私は神様のそういう働きは強いと思うんです、ね。いわゆる、身代が出けたりとここに仰るが、少しばっかり例えば不自由せんで済むような信者が出けて来ると、もう頭を下げたり、いわゆる昼参り夜参りするとが可笑しいぐらいになってくる。

 神信心して身に徳が付いて来りゃです、もういよいよ本当の徳が付いて来ると、例えば三宝様が、ね、穀物が実れば実るほど頭を下げてくる。本当の徳ならば、もう本当に、家にジッとはしてはおられないという信心が生まれてくるはずなんです。ね、金光様の事を思うたら、親先生の事を思うたら、それは教えて頂いた事を行じておろうかも知れんけれども、そのおご苦労に対してでもです、本当に有り難うございますという、お礼の参拝が出来、願いの信・・・参拝じゃなくても、お礼の参拝が出来にゃならん、ね。

 それが出来んようになる、その辺で、私は信心を腰掛けたり、割り切ったりしたんではです、ね、いよいよ本当なものは身につかんなりにしまえなきゃならない。私が最近言っおる、あの世、この世を通して通用するものを頂く事が出来ない。私はこの45節をね、ここの今、頭を下げる事を忘れるというところを、今日は焦点にして頂いておるんですが、ここんところを、御神訓ではどういう風に言うて下さるのであろうかと思うて、御神訓のところを頂かせて頂いたら、ここへ頂きました。

 我情我欲を離れて真の道を知れよと。次には、何を食うにも飲むにも、有り難く頂く心を忘れなよと言う、この二つを頂いた。ははあ、ここんところを頂いておくと、私は頭を下げる事を忘れると言ったような事がなくなるという事を感じた。ね、何を食うにも飲むにも有り難く頂く心を忘れなよと。我情我欲を離れて真の道を知れよと。まずそこの、我情我欲を離れてということ、ね。

 まあこれは私は、もう本当に身に徳が付けば付くほどです、いや俺が言う事がほんなこっと言ったような風ではなくてですね。素直な心がいよいよ素直になって行く。結局自分の思いというものは捨ててしまう、我情を捨ててしまう。ね、自分の思いというものがなくなるですから、いわゆる、お父さんそら右ですよ、と例えば家内が言うたら、ああそうかと左にしよっても右にしたらそれで良いのである。

 お父さん左ですよと、と子供が言うたら、子供の言う事にでも、ああそうかねと言える心になったらええ。三代金光様がお若い時に、九州にもおなりになりましたが、東京にお出でられた事があった。そん時にその、汽車の中で随行の先生方がご一緒におる。いわばあの、汽車の中でですね。ちょうど進行しておる方へ向かって、お乗りになっておられる。

 そしたら、随行の方がですね、金光様あの、お偉い方はそれの反対側の席にお付きになるのが本当でございますち言わっしゃった。ぜひ、金光様どうぞこちらにって、こう言われた。はい、ち言うてからそちらへお座りになった。ところが、ある駅でその、次々と金光様がおいでられたというので、教会の先生、信者方が皆その、駅頭に御挨拶に出ておる訳です。そしたらあの、ある先生が、まあ金光様に申し上げる。

 金光様、そちらの方へおむかえになってお座りになりますと、お疲れになります。こちらの方にお掛けになったが、体がお楽ですと言うて忠告して来られた先生があった。はあ、そうですかと言うてそれにお座りになった。ね、それを随行の方達が見て、もう金光様はもう本当に素直なお方だと言うて、関心したと言うのです。ね、金光様のごとお徳を受けておられる方でも、ね。

 ね、先生、金光様の事を思うて、この人も言うてくれる、皆が言うてくれるんです。その通りの事をなさった。ああそうですかと言うて、右に行ったり左に行ったりなさったと言うのである。ね、こういう状態になると、もう天で頭を打つようがなかろうと思う。私共も出来るだけ、出来るだけで本当にそういう事に徹したいと思います。もう本当に思います。それが我情を捨てた姿だと思います。

 けれどもその、家内が言うと、俺が言う事がほんなこと、俺が言う通りにしときゃ間違いなかというような事になって。この辺のところをですね、自分のものにしていく信心をして行きますとです、私は天で頭を打つような事のないようなおかげが受けられる。次に、何を食うにも飲むにも有り難く頂く心を忘れなよと。ここでも、穀物、ね、穀物という事は三宝様。食べ物をお粗末にすると、という意味でしょうね。

 ですから、食べ物の御理解を持って、御神訓をもって教えて下さったんでしょうが、何を食うにも飲むにも有り難く頂く心を忘れなよという事は、肉体に与えられたところの食物ではなくて、心に与えるところの、「かて」なのである。ね、心に与えるところの食物である。その中には、甘い物もありゃ、辛い物もありゃ、酔物も、場合によっては臭い物もある。

 ね、それが自分の心をいよいよ健全にしてくれる、いわゆる自分の心をいよいよ豊にしてくれる、ね。自分の心をいよいよすぐくまに、真っ直ぐに直してくれる食べ物が、ね、私共の周辺に起きてくる様々な難儀であったり、問題であったりなのです。ね、だからここんところは、一つ成り行きを大切にして行けと私が言う、成り行きの全てを有り難く頂いて行けと。何を、何を食うにも飲むにも、それを有り難く頂く心を忘れなよと。神様のそういうような働きをです、自分の心の中に、一応合掌して受ける心を忘れなよと。

 ははあ、こういうような心の状態になれば、頭を下げる事も忘れる。頭を下げる事を忘れると仰るが、頭を下げる事を忘れるような事はなかろうと、こう思います。ね、まず自分の我情を取ること、素直になること、自分の思いを捨てること。して、女の方でもそうだろうと思いますね。それは私はまあ、大変何て言うんでしょうかね、気が小さいと言うか。まあ言うなら自分、我情が強い。

 家内、若い時、家内と一緒に、まあ外出はいたします。自分の気に入った着物を着らなきゃ気に入らん。帯はあの帯でなからにゃ、下駄はこの下駄でなからにゃいかん。ですから、まあ例えばですよ。もう、いわゆる家内がもう、主人任せ、お父さん任せになっときゃ、こんな楽な事はなかろうと思うですね。はあその帯はいかんよ、まいっちょし直しなさい、この帯がいいよ。初めの間は素直にしよった。

 ところが、もう「         」ともう、足と爪先の事くらい喧しゅう言うからち言うてから、途中でクーっとしてから、もうクーっとしてしもうてから、もう行くごつなかちいうごたる風に言いよりました。ね、けれどもこんな楽な事ないじゃないですかね。自分でどれを着ろうかと思わんで、自分の主人の好きな着物を着て、ね。主人が赤を着れちゃ赤、青いとを着れちゃ青いとを、着る気になったらこんな楽な事はないのです。それを、自分の個性とか、ね、自分の我がです、いんや私はこれとかにゃ似合わん。

 そこに夫婦が、もうせっかくの楽しい事まで、楽しくなくなってくるのである、ね。私はその、任せる心くらい楽な事はないと思うです、ね。右と言われりゃ右、左と言われたら左。ね、金光様もそれのよう。これが、言うならば我情を取った姿。もう我情を取るぐらい、取れた、取れた姿ぐらい、私は尊いものはないと思う。自分の思いを捨てる、自分の思うように子供をしなければ承知がいかない。自分の思うように家内をしなければ承知がいかん、というようなではなくてですね。本当にお任せきった状態にならせて頂くということ。

 ね、自分の考えが良かのごつ思うとる、自分のとが、ほんな事間違うとらんごと思うところに、私はコリを積ませたりしなければならんのであります。だから、どちらかが素直になりきるとか、ね、その我情を捨てる。そこに、そこにです、これは信心をさせて頂くと、我が身は神徳の中に生かされてあるなあと。そういう実感が、のおかげが次にはあるのです。

 自分の思いではなくて、神様の思いで動いたが一番有り難いという事が分かるのです、ね。同時に、何を食うにも飲むにも有り難く頂く心を忘れなよという、これは食物の事ですけれども、それを、ね、肉体の、には食物を与えなければならんように、自分の心の上にも、心の食物。心のかてを与えなければならない。だからその事を心において、何を食うにも飲むにも、どういう事が起きてきても、どういう問題でも、それを心の糧と頂かせてもらえるだけの信心が出けたら、ね、天で頭を打つような事はないおかげが受けられると思う。

 自分が思うておる、自分がかくと信じておる事はそれで良いけれども、その信じておる事がです、ね、絶えずもっと本当な事へ動いて行く事の為に、いつも精進しとらなければならない。これはほんな事と、また、これが本当だと思うておる事で、おかげを受けておる。けれどもより本当があるならばです、より本当なところに入って行かなければならん。私は昨夜のお月次祭の後の御理解を頂きながら、ね、信心の一番大切なところとこう、いう事を話した。

 ね、それは私共が、ね、本気で教えに取り組ませて頂こうとすると、ね、その事が、難しい事が分かる。そして、今までお粗末御無礼であった事がわかる。ね、例えばそれを、昨日の光昭の話の中から、私は皆さんに聞いてもらったんですね。寒修行に入った、ね、だから少年少女会一同で話し合いをした。そして、物を大切にしようという事を言い合った、話しあった。そこで、本気で物を大切にしようとしだしたところが、今まで物を大切にしておらなかった事に気がついてきた。

 そして、出来る出来ぬは別にしてです、それに取り組んで少しずつでも出来て行きよる事がです、一日を締めくくった時に、本当にそれが何とはなしに嬉しい気がすると、光昭が言うております。ね、と言うようにです、ね、私は教えを頂いて、その教えを行じるところから、教えの難しさにも行きわたる。けれどもその教えが少しずつでも自分の身に付いて行きよる事が嬉しゅうなって来るという事、ね。

 それが、信心の一番大事なところだと夕べ話したですね。それが一番大事なところだ。真も真心も、実意丁寧神信心も、ね、そこから生まれてくる真であり、実意でなからなければならないのだと。ね、ですから、それを光昭の話の例によってですから、実に楽な話として聞かせて頂いたんですけれども、なら夕べの話は今朝もって参りますとです、ある意味合いにおいて、なるほど難しいなあという事が分かります。

 私は「惜しゅう?」して、もうここまでの信心が出来たんだ、そこで腰上げるような事があっちゃならん。そんな事じゃ必ず頭、天で頭を打つのだ、ね。そこで私が言いよる事を聞きなさい、私任せになりなさいという事はです、やはり難しい。けれども、難しいけれども先生が言いよりなさる事に、先生がああ言いなさるからと、先生が言いなさる方へ入ってく。その事を実行する事によるところからです、ね。

 その先生任せにならせて頂くという事が嬉しいものだな、有り難いものだな、楽しいものだなという事が分かって来る。もっと、もっと高度になれば高度になるほど、ここは難しい。そこから今まで自分が本当と思うておった事が本当でない事が分かって、より本当に進んで行く事が出来るのです。

 ね、ですからこの辺までは先生任せになるけれども、これから先は先生任せになられないというところにはです、もう一番大切なところ、もうお粗末にしてる訳です。信心の一番大切なところをお粗末にしとる。ね、これはもう限りなくどこまでも、やはり、ね。そこんところを大切にして行かなければいけません。信心の一番大切なところを、大切なところとして行かなければいけません。途中までは出来とるけれども、それから先が大切なところは、もうおろそかにしておる。

 その大切なところをおろそかにするですから、おかげの頂けれるはずはない。頭を下げる事を忘れる、天で頭を打つのが恐いと仰る。天で頭の、を打つことのない、ですからこの45節は、ね、せっかく頂いたおかげを、ね、少しばかり頂いた、いわば信心、少しばかり頂いたおかげでです、そのおかげをまた、慢心が出るとおかげを取り外すぞと仰るように、自分では慢心と思うていなくても、慢心である証拠に、それを取り外してしまわなければならない、また結果になってはならないという事を、強調してある御理解だとこう思います。それを今日は、頭を下げる事を忘れると仰るが、ね、ここんところが忘れんで済む為に私共がそこんところに心掛けておる。

 ね、それを例えば、その御神訓の中から、我情我欲を離れてと言う御神訓と、何を食うにも飲むにも有り難く頂く心という、いうような心を心として、心掛けておればです、ね、おかげが受けられると言ったような意味の事を申しましたですね、どうぞ。


                       末永信太郎 ( 5月1日 )